「国債増発」大丈夫なの? 新聞案内人 水木楊 作家、元日本経済新聞論説主幹

2009年12月18日(第51週)

国債増発」大丈夫なの? 新聞案内人 水木楊 作家、元日本経済新聞論説主幹
(新s あらたにす 12/16)

http://allatanys.jp/B001/UGC020002420091216COK00447.html
※リンク切れはご容赦願います。

出来事ではなくコラムで、しかも国債云々ではなく中ある一節に反応して考えてしまったことで恐縮なのだが・・・。3ページ目にこんな一節がある。

よく言われることですが、現在の政府の歳入歳出の構造は、家計に例えるなら、「38万円しか収入のない家族が、92万円を支出しているようなもの」です。

○兆円という金額を身近な数字に置き換える(もっとも年収と比較するなら「380万円の年収で920万円の支出」の方が良いかもしれない)事自体は分かりやすい変換だと思うのだが、果たして国の財政を家計に例えるという発想で骨身にしみるような実感につながるのだろうか・・・そんな気がした。

むしろこうではないか。

「今の私たちは92万円のサービスに38万円しか払っておらず、後はツケとして子どもに押し付けているようなもの。」

国は税金を徴収し、それを元に国民に様々なサービスを提供する。そのサービスにかかる費用が92兆円だ。一方国民はそのサービスに対し、38兆円しか払っておらず、足りない分は先送りして子孫に借金を負わせる気でいる。

そういう事実として国民に突きつける覚悟が必要なのではないか、という気がしなくもない。もちろんそんなことを言えば、新聞は購読が激減し、政治家は次の選挙で椅子がなくなるだろうから、まず言わないのだろうが・・・。

国の財政を家計と一緒にしてしまうと、国が大変ということはなんとなく分かっても、国民として何をするべきかというのが見えてこないのだ。

コラムの例えだと、状況を改善するには「収入を増やして、支出を減らす」必要がある。そこまでは分かりやすいが、それをするのは誰かという時点で、「自分ではなく国がすること」と他人事になってしまう。「収入を増やすために税金を上げるのも、支出を減らすためにサービスを減らすのも(国民としては)とんでもない!」となってしまうのだ。

後の例えの場合、状況を改善するには「サービスを我慢して、支払額を増やす」必要がある。誰がするかといえば、国ではなく国民だ。厳しいようだが、それが国民に突きつけられた課題であって、その自覚を促すことが政治やメディアに求められる役割なのではないか。
(逆に言えば、黒字の財政は「払ったお金に見合うサービスではない」ということになるので、国としては健全財政でも、国民としては怒っていいかもしれない。)

こうした置き換えはあくまでも国に対置する国民の立ち位置のままでやらなければ、本当の意味での自覚にはつながらないような気がするのだが、どうなのだろう。